AYUと浜崎あゆみ~~~AYUと浜崎あゆみ~~~浜崎あゆみsについて調べていくうえで、過去の雑誌などを見ていると ayu と浜崎あゆみを使い分けているように感じた。 普段は自分をayuや私と呼んでいるが 雑誌などで「ayu」の意見として「浜崎あゆみ」の存在について語っている。 例えば 「浜崎あゆみというアーティストに前よりも深くかかわることによって歌う意味を感じる」 「走って走ってどこがゴールなんだろう?って。。。ayuはココにいるけど浜崎あゆみはどこに居るんだろう。。。って。。」 という言葉で、これらの言葉から、 浜崎あゆみは→AYUの感じたことやキモチなどの伝えたいことをメディアを通して伝える。アーティストとしてのあゆのこと。(私たちが目に見ているのは浜崎あゆみ) あゆ→ 浜崎あゆみという人物の自然体。いろんなことを感じたり、聞いたり、、、。AYU自身からみた「自分」のこと。アーティスト「浜崎あゆみ」の原点。 だと思う。 こういったら御幣があるかもしれないけど、簡単に言えば、アーティストとしての製作者として浜崎あゆみを客観的にみているマネージャーのようなのがあゆでそれによって成り立つ商品が浜崎あゆみといったところではないかと思う。 浜崎あゆみがAYUの詞を歌う。 「君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに散っていくから」 「気づけばいつでも振り向けば君が笑っていました」 「だけどそれは決死て後悔ではなくてあの日々があった証なのでしょう」 恋愛の歌詞。 でも考え方を変えると浜崎あゆみ という存在について詩ってるようにもおもえてくる。 自分の思う伝えたいことと、世間の伝わりかたと、メディアの伝え方と。。というところにすれ違いのようなものを感じていたのかな??っておもう。 「どこを見てもあゆみたいな人がいっぱいいて。。。」 ↑この言葉はある番組で取り上げられてた言葉。 自分の知らないところで、自分の自身のことが たくさんの知らない誰かに知られている。 伝えたいことはこうじゃないのに。。私はこうじゃないのに。。。 そう思っても、誰かの手によって自分の人格が勝手に作られて。 見た目だけ「浜崎あゆみ」なのに中身はメディアがつくりだしたAYUだったりして。。 どこにでも 自分みたいな人がありふれてるから、本当の「浜崎あゆみ」自身はどこにあるのかな・・・って思ったのではないかと思う。 あくまでもO○ゅきな○Oの解釈でしかないけど、 自分じゃない自分があふれ出してるから戸惑いを隠せなかったのかなって。。。 でも最近になってこんな発言をしている。 「いままで伝わらなくて絶望さえ感じることってあったけど そういうズレは自分が作ってたんじゃないかな。。って。 その隙間は埋まらないし、埋めなくてもいいかなって思うようになった。」 ジャンル別一覧
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